虎魚の日記

しがない魚 妖怪話と哲学が好き

退屈してるうちに

おいらは虎魚。

虎の魚と書いておこぜと読む。しがない魚だ。

 

ところで人生ってのは、同じことがどれだけ続くのだろう。

朝昼晩、春夏秋冬すべてはぐるぐる回ってるだけなのか。

おいらがすることに初めてのものはなく、おいらが見るものに新しいものはない。

「この世に新しいものは何ひとつない」ってコヘレトの言葉にもあるが、人生は苦痛でなくとも空虚だと思ってる人は少なくない。

 

人は自分の能力が存分に活用されていないときに退屈を感じるようにできてる。困難が少なすぎるか多すぎると退屈だってことだ。簡単すぎるゲームもつまらないが、難しすぎて進まないのもつまらないってことだ。

理由は簡単で、没頭できないからだ。人は何かに夢中で取り組み、そのことで心をいっぱいにし自分の才能を存分に発揮することを必要としている。

自分にとってちょうどいい難易度の困難がずっと続けば人は飽きることなく仕事にも取り組めるのかもしれんな。

ただ、退屈というのも悪いばかりではなく人にとって必要なものだ。退屈を感じない人間は行動しない。退屈を感じなければ人間の祖先は火を使えるようになっただろうか。狩りをしただろうか。いつまでもゴロゴロしていることに飽きないならば人は進化しなかっただろう。

退屈な作業を自動化するために工業は発展した。工場で単純作業を延々と繰り返しているロボットは退屈しない。ただ指示された作業を繰り返し行う。そこには何の工夫も進展もない。ロボットに発明はできないってことだ。

退屈があるから人は進化してきた。だが、その退屈のせいで苦しむ人も多くいる。

常に警戒し、即座に世界に反応しようとする内的な努力が退屈の原因であるという考えがある。

同じ出来事が繰り返されると、それをはっきり全て見ることができなくなる人がいるのだ。彼らには反復作業が苦痛であり、新たに現れるものがすでに見たことがあるものに感じられる。退屈傾向のある人は同じ絵を繰り返し見せた時の前頭部の神経反応が遅く明確でないことが実証されている。環境のなかの事物にすぐ慣れてしまうようだ。ほかの人たちには新しく新鮮なものも彼らには急速に古いものになってしまう。彼らが注意を払うためにはもっと目新しいものが必要となるのだ。そのため刺激を求めてやみくもに行動し、慢性的にエネルギー不足を引き起こす。しかし没頭するための十分なエネルギーがなければ人は退屈する。これでは退屈から逃れようがない。

退屈から脱するには退屈の本質を見なければならない。目標もなくやみくもに刺激を求めることは一時的な逃避にすぎない。退屈が生じるのは、目標を持たないせいだ。最も切迫した目標が「目標を持つこと」なのに目標がまったく現れないことが退屈のもとじゃないか。

本当に没頭できるもののかわりに、努力を必要とせず非常に魅力的で少しの間退屈をしのげるものはたくさんある。しかし、そうした気休めは一時しのぎで、退屈はさらに強大になって戻ってくるだろう。

退屈は、行動を起こす必要性を知らせる信号だ。退屈から逃れたければ、深呼吸をして考えなければならない。おまいさんの目標はなんだ。なにをするんだ。

退屈してるうちに人生が終わっちまうぞ。

おいらたちは短い人生を受けているのではなく、おいらたちが人生をみじかくしているんだ。おいらたちの人生は不足しているんでなく、浪費しているんだ。

人生は使い方を知れば長い。

 

虎魚

 

 

 

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