虎魚の日記

しがない魚 妖怪話と哲学が好き

たまには六曜も

おいらは虎魚。

虎の魚と書いておこぜと読む。しがない魚だ。

 

今日は六曜だ。暦に書いてあるが、知っているだろうか。友引、大安、仏滅はよく聞くだろうが、一応意味を知っておくほうがよい。現代でも晴れの日や祝い事の日取りには使われる。暦には他にも十二直や下段と呼ばれる選日なども記載されていた。占いのようなものだ。

先勝 急ぐこと吉。午前は吉。午後は凶。

友引 友を引く。祝いごとは良いが葬式などの凶事を忌む。朝夕は吉。正午は凶。

先負 何事も控えめに平静を保つ日。午前は凶。午後は吉。

仏滅 万事凶。葬式や法事は構わない。

大安 万事大吉。特に婚礼に良い。

赤口 凶日。特に祝事は大凶。火の元、刃物に要注意。正午は吉。朝夕は凶。

 

あまりとらわれる必要もないが知っておいても損はない。暦も何気なく見ているが知らないこともあったりする。機会があれば中段や下段についても書くかもしれない。

暦や方位は知っておくと役に立つことがある。方位に興味があれば八卦なども面白いが。

 

虎魚

 

 

死んでホトケになるか

おいらは虎魚。

虎の魚と書いておこぜと読む。しがない魚だ。

 

死んだらホトケになるという。しかし、死んで「ホトケ」などと呼ばれることを迷惑に思った者は、昔から多いはずである。ホトケになるとは、遥か西方十万億土の彼方の極楽浄土に行くと言うことだ。日本人の志としては、たとえ肉体は朽ちて跡なくなってしまおうとも、この国土との縁は絶たず、毎年日を定めて子孫の家と行き通い、幼いものの段々に世に出て働く様子を見たいと思っていたろうに、最後は「成仏(死後仏になること)」であり、「出て戻る(この世に戻ってくる)」のは心得違いででもあるかのごとく、頻りに遠い所へ送りつけようとするのはいかがか。

 

この国では死んだ者がひょっこり出てきても不思議はなかった。死んだら先祖となり家をまもり、子孫を見守る。仏教を信仰し念仏を唱えて死んだら極楽浄土を願いながら、盆正月には帰ってくる気で居る。生まれ変わるつもりもある。死んでからも忙しいこった、身体が一つでは足りんな。

 

虎魚

 

 

虎魚おすすめ書 先祖の話 | 柳田國男

 

 

「見るな」というほど見たいものだが

おいらは虎魚。

虎の魚と書いておこぜと読む。しがない魚だ。

 

見てはならぬもの、と言うと何を思うだろうか。鶴の恩返し鶴。豊玉姫のお産。お守りの中身。竜宮城の玉手箱。たくさんあるが見るなと言われると見てしまうという共通点がある。

「見るな」というのはだいたいが人ならぬモノ、妖怪よりも神仏に近い存在だ。見てはならぬものは見ない方がいい。見て良い結果になることはあるまい。

人が人の世で生きる上でこの世ならざるモノや神仏の世界に興味を持ちすぎるのはあまり良いことではないように思う。あの世のことは、この世を全うし死んだ後で思う存分知ることができる。しかし、この世のことは此の世でしかどうにもすることはできない。死んだ後では戻れぬのだ。

人ならざるものは恐れ敬うものであり、興味心で近づくものではない。人の住む土地と人ならざる者が棲む土地は近く重なり合う場合もあるかもしれない。この世とあの世の境はすぐそこにあるものだ。それは物理的な距離ではなく、一寸先は闇ということだ。今生きているが、一瞬先に生きているとは限らないという意味でだ。基本は、人の住む地に人ならざるモノは棲めず、その逆もまた然りだ。

 

人として生を受けた以上は人の生を全うするのが筋だ。

 

虎魚

 

 

天に吊られ地に引っ張られ

おいらは虎魚。

虎の魚と書いておこぜと読む。しがない魚だ。

 

姿勢の話。今、そのままの姿勢で腕を肩から延長線上に真っ直ぐに伸ばしてみてほしい。どの方向に向くだろうか。真横に水平に伸びたろうか。背筋が曲がっていては水平にはならない。斜め下を向くだろう。体の真横にも伸びない。どんな時でも姿勢を正しくしておく方がいい。健康面でもちろん良いだろうし、精神面でも善い。

人はいつでも天から吊られている。頭のてっぺんつむじのあたりに糸が付いていて吊り下がっている。坊主じゃなければつむじの髪をちょいと引っ張り上げてみてほしい。すっと胸の空く姿勢になる。その糸に逆らって前に倒れたり後ろに倒れたりあごを突き出してみたりすると体は重くなる。前や後ろに歩くときはそれでもいいが、座っているときや突っ立っているときなど動いていないときは頭のてっぺんの糸に吊られる方が体が軽くていい。最近の人は首の後ろや背骨の途中なんかから吊られている人もいるようだが。

そんで、地の底からは足首を引っ張られているから、あんまり足をあげて歩くと疲れる。行進なんて歩き方があるが足上げて歩くのは辛いもんだから人は頼まれないとやらない。自然じゃないことはやらない方がいい。いつもまっすぐ上と下から引っ張られていることを感じながら居ると正しい姿勢になる。寝るとき以外いつも天から吊られていることを忘れないことだ。

もう一つ、最近では筋肉を鍛えて肥満防止をするそうだが、ケツの穴をぎゅっと締めておけば太らんと思う。ケツの穴を締めておけば腹の底まで自然にぐっと引き締まる。糞をするとき以外は一時も忘れずケツの穴を締めておく。その他はどこにも力はいれないで、柔らかくしていい。これだけで太らんし怪我も減る。

最近では着物を着る人も減ったが、着物に限らず姿勢がいい人は美しいもんだ。天の糸には正しい位置で吊ってもらうのがおすすめだ。

 

虎魚

 

 

見えないものは見えないまま見る

おいらは虎魚。

虎の魚と書いておこぜと読む。しがない魚だ。

 

今日は四諦

お釈迦さまが菩提樹の下で悟り、最初に説いた教えが「四諦、八正道」だ。四諦は「四つの真理」と言われる。

苦諦 人生は思うようにならない

集諦 思うようにならない原因は煩悩

滅諦 煩悩を取り除けば解決

道諦 解決するには八正道の実践

八正道を実践すれば煩悩を取り除き思うように人生を送れるということだ。欲望や執着を完全になくすことはできないが、自分を律し欲望を少なくし、執着を減らすことはできる。「少欲知足」が大事だ。

正見 正しく見る

正思惟 正しく考える

正語 正しい言葉で話す

正業 正しい行いをする

正命 正しく生きる

正精進 正しく努力する

正念 正しい教えを守る

正定 正しく精神を持つ

ここでの正しいとはあるがままにだ。これを知り正しく実践すれば人生は思いのままとなる。やらねばそんだが、あるがままというのがミソだ。仏教で言う「あるがまま」は何もしないということではない。正しく見るには、見えてないことを見えたつもりにならないように。

 

 

虎魚

 

流行りの恋愛

おいらは虎魚。

虎の魚と書いておこぜと読む。しがない魚だ。

 

恋についてだ。最近では恋愛というのが流行っている。まず相手と出会い、何度か会って人となりを知ってから恋に落ちるんだそうだが、恋愛ってのは明治以降で欧米から輸入されたものだな。

日本でも昔から異性に対して焦がれたり慕ったりすることはあった。だが、今の恋愛のように先に相手を知る必要はない。まず顔も見たことない相手に恋をする。それは噂一つあれば成り立つ恋であり、「たいそう美しいらしい」でも「気立てが良いらしい」でも「働き者」でもなんでもいい。実体は重要ではない。一目ぼれも多く、顔が見えずとも遠くから後ろ姿を見るだけ、戸の隙間から着物の裾が見えただけでも恋に落ちることができた。

相手の顔や性格、名前や素性などは恋とはあまり関係がなかったからだ。

昔話では、ある女のもとに夜な夜な男が通ってくる。暗闇で相手はだれだか分らぬまま子を身ごもった女が、年寄りの助言を受けて着物の裾に針を刺しておく。夜が明けてから糸をたどってみると男の正体である大きな蛇がいたなんてのがよくある。この場合も運命の相手がたまたま人ではなかったというだけで大した問題にはならない。顔も名前も知らない男(この場合は蛇)と子を作り、身ごもってからようやく相手の素性が気になりだすのだ。

ましてや、相手が人間であれば、顔も知らず名も知らずとも夫婦になるのはたやすい。相手の名前や仕事、親や家なんて結婚した後でもわかるし、先に知らないといけない理由がない。結婚して夫婦になってから知ればいいのだ。

一緒に暮らし、子を育て、長くともにいれば相手の人となりもわかってくるだろうが、結婚もしないうちから相手がどんなお人かなんて分かりっこないのでは。知ろうと思うほど結婚できなくなってしまうだろう。

 

最近流行りの恋愛は不自然で難しく思える。性格や家柄など難しいことは気にせず芸能人や架空の漫画の中の人に恋する感覚のほうが日本人らしい。いろいろ忖度する前にとりあえずそこらの男や女と結婚してしまう。そのあとでどんな相手か知っていくほうが退屈しない。上手くいけばもうけもん。上手くいかねば別れりゃいいじゃないか。人間だって動物同士、結婚なんてただの相性の話だ。合う合わないがあって当たり前。動物園でもやってる。

 

虎魚

 

 

一日のはじまり

おいらは虎魚。

虎の魚と書いておこぜと読む。しがない魚だ。

 

一日はいつ始まるか。夜中の零時か。朝起きてからか。いつからが昨日か。

われわれ日本人の一昼夜は、もとは夜昼という順序になっていて、朝の日の出に始まるのではなく、真夜中の零時を起点とするのではなおさらなく、今いう前日の日没時、いわゆる「夕日のくたち」をもって境としていた。

たとえば漢語で「昨晩」というのをわが国の口語では「ユウベ」といい、「一昨晩」を「キノウノバン」と言う人が多かった。

だから一年の境の「年越しの御節」というのもシナで「除夜」という前晩の夕飯時のことで、この刻限に「神棚」に御灯明を上げ最も念の入った御前と神酒とをそなえて、その前に一家総員が居並んで本式の食事をした。

町では一夜明けてからやっと正月になるようにいう者が多くなったが、そんなら何故に前晩に年越しの祝いをすますかを説明することは不可能だ。

 

現代では朝起きてから一日が始まるように思いがちだが、日没に新しい日は始まった。おいらたちは、日が暮れると家に帰り風呂で身を清め、飯を食って眠ることから一日を始めている。

 

なかなかいい一日の始め方だ。早く寝よう。

 

虎魚

 

 

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