虎魚の日記

しがない魚 妖怪話と哲学が好き

今はだれの時代だろう

おいらは虎魚。

虎の魚と書いておこぜと読む。しがない魚だ。

 

「非僧非俗」僧にあらず俗にあらず。「僧に似て塵あり、俗に似て髪なし」とも言うか。人に非ざる人であろう。世間からは外され追放されたアウトローのことだ。そのような生き方を志す者がいる。おいらも人間の真似はしたくないもんだ。

 

仏教では乞食というものがある。

乞食(こつじき)から乞食(こじき)乞食(こじき)から木食(もくじき)木食から断食そうして枯れるように死んでいく。これは良い死に方である。

 

仏教に限らず乞食というのはカミやホトケの名においてものを乞う行為。それがようやく終焉を迎えようとしている。かつてそれは祝い事をのべて寿ぐひと(ホカイビト)、異界から訪れてくる貴人(マレビト)たちのおこないだったのに。田を耕す農民たちの時代がやってきていた。漂白し流浪していく芸能民たちが差別され定住民の生活から追い出される暮らしが定まりかけている。

 

これははるか昔の話だが彼らはどこへ行ったのやら。今はだれの時代だろうか。

 

虎魚

 

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彼岸と少々暦の話

おいらは虎魚。

虎の魚と書いておこぜと読む。しがない魚だ。

 

「暑さ寒さも彼岸まで」夏の暑さも「秋の彼岸」のころにひと段落し、冬の寒さも「春の彼岸」のころが峠で、春秋の彼岸を過ぎればしのぎやすい気候になるって意味だ。春の彼岸は牡丹の花が咲くから牡丹餅、秋は萩の花なので御萩を食べる。

「彼岸の中日」の前後七日間を、仏教作善の期間として彼岸と呼ぶが、もとより仏教で言う「彼岸」は此の世の「此岸」に対してのあの世、悟りの世界を表す言葉だ。

彼岸の中日は、太陽が真東から昇り、真西に沈む「春分」と「秋分」に当たる節目の日で、二十四節気では、天地諸神や陰陽が交代する重要な日とされる。

ちなみに、七十二候では春分の時期に「雷乃発声」遠くで雷の音がし始める。秋分の時期に「雷乃収声」雷が鳴り響かなくなる。

 

暦のつながりで金神様がおわす方位はきにかけたほうがよい。金神様は殺伐を好み、木に触ることをきらわれる。剪定はもちろんそちらの方位で木を買ってきたり、木にくぎを打つのもよくない。金神のさわりといわれよくない。

何かやる時は調べてから行うとよいかもな。

 

 

虎魚

 

 

お山の神さん



おいらは虎魚。

虎の魚と書いておこぜと読む。しがない魚だ。

 

日本には神道と呼ばれる宗教がある。神道には確たる教祖はなく、確たる教義もない。世界の規範でいう宗教の体をなしていない。世界の原初民族にも通じる自然信仰であり、呪術信仰である。

 

日本での古神道もそれに類するものだった。古神道は大陸より伝来した仏教の影響を色濃く受けている。社殿もその一つだ。元の神道では、社殿を必要としなかった。社殿ができるのは、渡来仏教の影響を受けた奈良時代になってからだ。

三輪のカミでは三輪山そのものがカミが坐します神座。壮麗な拝殿ができて、神社を名乗りだしたのは近世も江戸中期になってからだ。日本のカミは山そのものであり、岩そのものであった。

 

はるか昔から山は信仰の対象であった。人は山を恐れ敬い拝んできた。

山は天上界と地上界をつなぐ位置にある。山そのものがカミであり、山にカミ、ホトケ、魑魅魍魎が棲んでいる。

また、山には中腹あたりに峠がある。峠の語源は手向けだ。山頂部は神がおわします聖域であり猟師も樵も旅人も峠から望むものであった。山頂部の樹木は神の依り代でもあり社とした。

古来日本人はそうした山林の手入れを怠ることはなかったが、近年それが滞るようになっている。間伐されない杉山は悲惨だ。枝が込みあい気はやせ細り光が入らぬので下草が生えない。雨が降るたび土が流れ川は濁流と化す。

人は山の神との約束ごとを忘れるともなく忘れつつある。

 

おいらは魚だがお山が好きだ。お山の神様は醜女などと言うやつもいるが、そんな訳があるか。姿かたちなどにとらわれるやつは阿呆だ。そもそも神さんが女の姿で現れたとしても、女の姿で現れただけのことであって女ということではない。本質は姿かたちなどにはないのだ。ちなみに山の神さんは虎魚がお好きなんだと。たいそう立派でお美しいことだろうよ。

 

虎魚

 

 

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退屈してるうちに

おいらは虎魚。

虎の魚と書いておこぜと読む。しがない魚だ。

 

ところで人生ってのは、同じことがどれだけ続くのだろう。

朝昼晩、春夏秋冬すべてはぐるぐる回ってるだけなのか。

おいらがすることに初めてのものはなく、おいらが見るものに新しいものはない。

「この世に新しいものは何ひとつない」ってコヘレトの言葉にもあるが、人生は苦痛でなくとも空虚だと思ってる人は少なくない。

 

人は自分の能力が存分に活用されていないときに退屈を感じるようにできてる。困難が少なすぎるか多すぎると退屈だってことだ。簡単すぎるゲームもつまらないが、難しすぎて進まないのもつまらないってことだ。

理由は簡単で、没頭できないからだ。人は何かに夢中で取り組み、そのことで心をいっぱいにし自分の才能を存分に発揮することを必要としている。

自分にとってちょうどいい難易度の困難がずっと続けば人は飽きることなく仕事にも取り組めるのかもしれんな。

ただ、退屈というのも悪いばかりではなく人にとって必要なものだ。退屈を感じない人間は行動しない。退屈を感じなければ人間の祖先は火を使えるようになっただろうか。狩りをしただろうか。いつまでもゴロゴロしていることに飽きないならば人は進化しなかっただろう。

退屈な作業を自動化するために工業は発展した。工場で単純作業を延々と繰り返しているロボットは退屈しない。ただ指示された作業を繰り返し行う。そこには何の工夫も進展もない。ロボットに発明はできないってことだ。

退屈があるから人は進化してきた。だが、その退屈のせいで苦しむ人も多くいる。

常に警戒し、即座に世界に反応しようとする内的な努力が退屈の原因であるという考えがある。

同じ出来事が繰り返されると、それをはっきり全て見ることができなくなる人がいるのだ。彼らには反復作業が苦痛であり、新たに現れるものがすでに見たことがあるものに感じられる。退屈傾向のある人は同じ絵を繰り返し見せた時の前頭部の神経反応が遅く明確でないことが実証されている。環境のなかの事物にすぐ慣れてしまうようだ。ほかの人たちには新しく新鮮なものも彼らには急速に古いものになってしまう。彼らが注意を払うためにはもっと目新しいものが必要となるのだ。そのため刺激を求めてやみくもに行動し、慢性的にエネルギー不足を引き起こす。しかし没頭するための十分なエネルギーがなければ人は退屈する。これでは退屈から逃れようがない。

退屈から脱するには退屈の本質を見なければならない。目標もなくやみくもに刺激を求めることは一時的な逃避にすぎない。退屈が生じるのは、目標を持たないせいだ。最も切迫した目標が「目標を持つこと」なのに目標がまったく現れないことが退屈のもとじゃないか。

本当に没頭できるもののかわりに、努力を必要とせず非常に魅力的で少しの間退屈をしのげるものはたくさんある。しかし、そうした気休めは一時しのぎで、退屈はさらに強大になって戻ってくるだろう。

退屈は、行動を起こす必要性を知らせる信号だ。退屈から逃れたければ、深呼吸をして考えなければならない。おまいさんの目標はなんだ。なにをするんだ。

退屈してるうちに人生が終わっちまうぞ。

おいらたちは短い人生を受けているのではなく、おいらたちが人生をみじかくしているんだ。おいらたちの人生は不足しているんでなく、浪費しているんだ。

人生は使い方を知れば長い。

 

虎魚

 

 

 

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死なねばならない尤もな理由

おいらは虎魚。

虎の魚の書いておこぜと読む。しがない魚だ。

 

その昔マルセイユ・ケオス島では、

死なねばならぬ尤もな理由を述べることの出来た者には死の当局者から毒人参の汁が与えられたそうな。

死なねばならぬ尤もな理由が何なら認められるのかは知らぬ。よっぽど深刻なことか。思わずうなるような哲学の話か。十分に善行を積んだから死なせてくれと話せばよいのか。

何にせよ人が納得するような死ぬ理由を持っていけば毒汁をもらい死ぬ権利が与えられるという話だ。

いったいどれほどの人が毒人参を貰っただろうか。

おいらが毒人参を貰うには何を話せばいいだろう。くれなければお前を取って食うぞと脅せばくれるだろうか。いや、死の当局者だ。死の権利を与えるなどという神の代理者はそんなに甘くはないだろう。きちんと死ななければならない尤もな理由がなければ毒人参は渡さんはずだ。

では、おいらが死なねばならぬ尤もな理由はなんだろう。

「善人は不幸が度を越えたとき、

悪人は幸福が度を越えたとき、人生と決別すべきである」

とストバイオスは言った。

おいらのような魚が善人か悪人かはいったん置いて、幸福や不幸は死ぬ理由になり得るだろうか。

幸福や不幸は一時的な状態であって、そのまま一生悪いことが続く印でも一生善いことが続く証でもない。一瞬の状態など幾ら辛くとも「人生の長さ」と同じでたいした意味を持たない。待てば過ぎ去る状態を苦しい、受け入れがたいなどと訴えても死の当局者は毒人参を渡さないだろう。

だが、落ち込む必要はない。死にたくなるほどの不幸や幸福はそうそう経験できないもんだから、過ぎ去ってみればよい話のタネになるもんだ。

 

さて次だ、他の理由を考えよう。

「未亡人」という言葉がある。

夫が死んでもなお、未だ後を追ってなくならずにいる人だそう。

未亡人の場合は夫だが、大切な人や愛する者の死は、尤もな死の理由と言えるだろうか。

愛する存在を亡くした者はどん底と言える精神状態に陥るだろう。もう立ち上がる力も無くすかもしれない。しかし死の当局者は毒人参を渡さないだろう。最愛の人を亡くしても、目に入れても痛くないようなかわいいわが子を亡くしても、その者はすべてを失ったのではないからだ。どれだけ愛していても、大切に思っていても、自分の全てだと信じていても、全てではない。ほんとうに何一つ残っていないか。

「もはや失うものなど何もない」と思ったせいでまだ残っているものすら失うことになる。

どん底のときこそ、身なりを整え、家の手入れをして、植物や動物、子供や老人などの面倒を見ることだ。どんな時もやるべきことを続けることが重要だ。自分の魂を失ったものは、困難な義務を果たせなかったのでも、不可能を実現できなかったのでもなく、単純な義務を果たすことを怠った。悲しみの底にいても、心が壊れかけていても、何の気力もわかなくても、死を選びたくても、単純な義務を果たす。それが人の在り方だ。

 

 

さて、死の当局者はなかなか手ごわいもんだ。おいらじゃ、毒人参は貰えそうにない。

死ぬのにもっともな理由があればぜひ、ひとつ教えてもらいたい。

まあ、なんだかんだ言ってもおいらは長生きの秘訣のほうが知りたいなあ。

 

虎魚

 

 

 

虎魚おすすめ書 四苦八苦の哲学 | 永江朗

 

 

イのチ

おいらは虎魚。

虎の魚と書いておこぜと読む。しがない魚だ。

 

おまいさん命とは何か、知っているのだろうか。

おいらにはさっぱりわからんので、書に聞いてみたが「イは息」、「チは勢」つまり「フーっ」と吐く息だ。命とは息のことだ。

死ぬことを息絶えるというのはそんなわけか。

 

命が息なら息が止まる時が死ぬ時だが、死ぬとはそんな明快なものではないようだ。まず生まれてきて生があり、その生が終わって死があるように思えるがそうではない。春のうちに夏が始まっているように生のうちに死は始まっている。

生きてるってことはだんだん死んでるんだ。

 

そんなこんなで命は息だなんて言うと頼りないし、生きてるうちから死にかけてるなんて思って生きてはいない。

せっかく生きるならちょっとでもよく生きようって考えるのが人だ。

おいらだって面白おかしく楽しく生きるのが一番だ。

 

そのためにはどうするのか、

「希望をもて、善良であれ」だ。

希望は未来を信じることだ。人は死を迎えるときでも、一文無しになっても、何の望みもない時でさえ希望を抱かなければいけない。

体の一部を失っても笑って生きる。災害ですべてを失っても立ち上がる。どんな小さな希望でも持って笑って立ち上がるしか道はない。

それが正しい道だ。希望をもてばもつほど道を誤ることも少なくなる。希望こそが人間を支えるから。

 

そして「善良であれ」だ。

善いことってのは何世紀もの間こつこつと時間をかけて磨かれた宝だ。

善良なんてのは退屈でつまらないものに思えるが、失ってみたらその価値がわかる。

新しいものや珍しいものは長続きしない、凡庸に思えるほど長く続く。

善良であり続けることは簡単ではない。良識を身に着けてそれを保つためならどんな苦労も厭うべきではないでしょう。

 

日々の暮らしってのは避けようのない差し迫った問題が次から次にやってくる、「命とは何か」なんてじっくり考えている暇はないし、待ってはくれない。

人が思うより人は何も知らないし世界はずっと大きいが、世界が大きくて未知であるほど、人は世界を信じられる。どんな資源が眠っているだろうか、どんな素晴らしいものが隠れているのだろうかと。

この世界を信頼して、希望を持って生きる。

それ以外は神にゆだねましょう。

 

 

虎魚

 

 

 

 

虎魚おすすめ書 日本思想の言葉 | 竹内聖一

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男と女、美人不美人

おいらは虎魚。

虎の魚と書いておこぜと読む。しがない魚だ。

 

おいらの知ってるお経の話をしよう。

あるところに年取った坊さんが居った。そこに時々天女が現れる。

この天女と坊さんはいくつか因縁があるのだが、この日は坊さんが天女に「あなたはどうして女の姿であらわれるのか」と尋ねた。するとたちまち天女の力で坊さんと天女の姿が入れ替わってしまった。天女が坊さんで、坊さんが天女の姿だ。

天女が坊さんに「あなたは女か」と問うた。坊さんは「女の姿だが女ではない」と答える。天女はうなずき「あらゆる女は女の姿であらわれているのであって、本来女でないものが女の姿であらわれている。お釈迦様はあらゆる存在は女でもなく男でもないとお説きになった」と言った。

 

男は男の姿であらわれたのであって、男ではない。

女は女の姿であらわれたのであって、女ではない。

 

人は姿かたちをもって生まれるが、その本質は姿ではなかろう。

皮の美しさではものの味はわからんし価値ははかれん。

それでも人は人を皮で選ぶようで着物や化粧に銭をよく使う。

男も女も美人も不美人も大して変わりはせんものだがな。

 

虎魚

 

 

 

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